2006年9月
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月30日(土)20時29分1秒
本当ですね。見逃してました
南ドイツに含まれるのはハンガリー、その周辺諸国
そしてトランシルバニア、ガリツィアってことなんですね。
まとめて、通りすがりさんの地図全域ってことか。
1867年にキシュベル牧場を開設して、すぐに名馬量産するのは
さすがに凄いよね。山野氏も書いてたけど。
トランシルバニア、ガリチィアの馬はドイツ帝国の成立
以降、二重帝国側の血統書に記載され、それが一次大戦まで
続いたってことですね。
オーストリア・ハンガリー帝国 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月30日(土)18時52分15秒
血統書が発行されるようになったきっかけは自国の成立ではなく
お隣のドイツ帝国の成立=小ドイツ主義の勝利だったんですね。
それ以前のハンガリー産馬はドイツ血統書の「南ドイツの部」に
登載されていました。そんな時代でもGSBには「ハンガリーへ
輸出」と書かれていましたが、その「ハンガリー」は今のハンガ
リーより随分広かったようです。サラブレッド生産の中心だった
国立キシュベール牧場はブダペストの西50マイル、スロバキア
国境から20マイルの所にありました。
http://www.rollintl.com/roll/austro-hungary.htm
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月30日(土)17時33分42秒
殿下、御無沙汰してます。
ここのクラドルーブ牧場なんかは現チェコみたいですね
そしてDrum Majyorってのは、ここで生産されたみたいです。
http://www.pedigreequery.com/drum+major2
第一次大戦以降もハンガリーに所属する牧場はリンク先の
濃緑の三つだけなのかな。でも小牧場はもっと沢山あるんだろうね。
かのNapajedla牧場なんはどこに位置するんだろうか?
地域愛が強いっていうのは、先のW杯で除け者だった
地域にとってはよくわかりますねwww
http://www.pferde-altoesterreich.at/gestuete-intro/
確かに 投稿者:ふてき 投稿日: 9月27日(水)07時51分48秒
デルマ見てると、FTで(HUN)な馬が別の国号になってることが間々ありますね。
これって編集した人の国籍、信条なんかで大きく左右されそうなんで、
誰かと誰かが編集合戦、みたいなことも結構あるんじゃないでしょうか。
ある種の代理戦争。
#もしかして「国家愛」より「地域愛」の方が上、という心理構造もあるかも?
この手の国号だと 投稿者:有芝まはる(ry 投稿日: 9月26日(火)23時51分16秒
ハンガリー辺りは凡そ二重帝国以後は(HUN)と(AUT)が分かれると思うのですが、
それにしても例えばチェコの牧場で生まれた馬とかもいたかもとか、或いは当時
ハンガリーと呼ばれていた地域でもトランシルヴァニアのように多国に接収され
現在の考え方では(ROM)になるとこもあるのかなぁ、なんてことを考えることは
あり。つーか、栄光のハンガリー馬のうちどのくらいがこういう「第一次大戦後
はハンガリーじゃない馬」になるのかはちょっと想像付かず。
自分も 投稿者:ふてき 投稿日: 9月26日(火)21時19分26秒
この手の読み物系が一番頭に残りますね。根本的にDQN系の人間なんでしょう。
katze さんの日常を見聞きしてると正直羨ましくなりますよ。
とても真似できないからこその憧れなんですけど。
まぁそもそもヒコーキ嫌いの自分じゃあ、外国どころの騒ぎじゃないのですが。
いやしかし、飛行機が駄目な海外競馬ファンってのも日本で唯一無二かもw
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月26日(火)03時23分35秒
ピウスツキはPilsudski(rus)ってことなんですねw
僕もヨーロッパの歴史はからきし駄目ですよ
一緒にこの小説でも読んで勉強しましょう
http://www.geocities.jp/warszawakozia/
実は現彼女はポーランド国境の街出身なんだけど
ポーランドについて、矢張り、警戒心が強いっていうね
小さい頃、彼女が迷子になった時、親父さんは本気で
ポーランド人に連れ去られたと思ったらしい。
ホント、これだからドイツは・・・・・
http://www.geocities.jp/warszawakozia/zenpena.htm
ポーランド懐古ですか 投稿者:ふてき 投稿日: 9月26日(火)00時49分46秒
親に尋ねたら「記憶に無い」そうです。
他の軍歌は結構覚えてるようなんですけどね。
デルマの生産国一覧にパキスタンはないですね。
フォーラムかどっかでリクエストすれば対応してくれるのかもしれませんけど、
英語でそんな遣り取りする自信はありませんし(苦笑)
これなんかも 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月25日(月)20時55分11秒
(IND) とあるのは全部 (PAK) なんですよねえ。
http://www.pedigreequery.com/balam
戦前の日本にも成歓牧場や荒井牧場なんかの「韓国」産馬がいましたが。
ポーランドと言えばこれですね。
淋しき村に出でたれば ここは何処と尋ねしに
聞くも哀れやその昔 滅ぼされたるポーランド
そのサイト 投稿者:ふてき 投稿日: 9月25日(月)19時57分37秒
凄いっすね。ご教示どもm(_ _)m
その昔、全教科の中で世界史(日本史も同様)が最も苦手、という学生だったもので
そっちの基礎がスッポリと抜け落ちてます。(錚々たる歴史ヲタ相手によくサイト管理人を
務めているという気が(笑))時々トンでも発言が飛び出しますが、笑ってスルーしてください。
ということでポーランドですが、国家の定義とも絡んでくるので相当難儀な問題かと。
スタッドブックが複数国を管理している場合(多くの場合は主従の関係にあり)に
とりわけ問題になろうかと。以前ゼネラルスタッドブックに関して教えて頂いた
ところでは、古い巻に関しては英・愛は全く区分なし(全てが英国産扱いに準じている)
と言う事だったかと。ファミリーテーブルもそれを踏襲しているためか、有名な
「アイリッシュバードキャッチャー」も Birdcatcher(GB) で登録されています。
勿論デルマでは Birdcatcher(IRE) になってます。<1833年生まれの方
ポーランド領の生産馬なんかはどんな処理をされていたんでしょうね。
時代によってドイツSB側だったりロシアSB側だったりしてるのかも?
ちなみにFT4では第1回ロシアダービー勝ち馬 Baronet(POL) が Baronet(RUS) に
なってます。
生産国の定義は現在は「生まれた場所」でいいんじゃないかと。ただこれも
時代とか地域によってはブレがあったのかもしれません。。。
#どこか訂正箇所ありましたら、突っ込み下さいまし。
ハッギン氏とドイツ馬産の関係は調べてみると面白そうですね。
ただ、あまり知られてないってことは後世への影響が小さかったと言う
ことかもしれませんが。
金根、判明ですか!
こりゃ皆さんのお力の賜物ですな。感謝感謝。
取り急ぎ登録しましたです。
http://www.pedigreequery.com/canene
当て字でした。 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月25日(月)19時36分30秒
米国血統書に CANENE, b.c.1909 がいました。
生産者 Mr. John MacKey, Yolo Stud, Woodland, Cal.
母 Galene, br.1897
その父 Brutus, bl.1885 (Macgregor - Teardrop, ch.1876 by Scottish Chief - Niobe)
その母 Picnic, b.1886 (Mr. Pickwick - Countess, ch.1869 by Theobald - Romula)
馬名は父 Canopus の前半と母 Galene の後半をくっつけただけですね。
外国産馬の年齢は現地に合わせて満年齢で書くのが当時のデフォでしたが
金根の4歳というのは日本式の数え年旧4歳ですね。
『日本之産馬』によれば3日目の曲線競走はカチドキの単走。
競走成績は1戦1勝で確定です。
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月25日(月)07時29分48秒
ポーランドは1919年に主権回復したってことで
その前はどうなんだろうね。BreslauとかPosen,Danzig,
Koenigsbergなんかもスタッドブックなんかでは、ごちゃまぜに
なってるみたいだし。そういや初心者の質問ですが、生産国ってのは
種付けされた場所なのか、生まれた場所なのか、どうなんですか?
僕の持ってるのは1920年の種牡馬本でCanopus,Eiderはドイツの牧場で
繋養されてて、Campo Formio種付け時は確実にドイツにいたと思う。
マーヨンは確かどっかに輸出されてたような・・ポーランドかな?
あと1908年の本でハッギン氏は大量にドイツに馬輸出してるみたいで
そうなるとガルバティ氏個人ではなく、ウニオンクルブが
ドイツ馬生産者の為、輸入したと考えるほうが理に適う。
面白いのは身重の繁殖牝馬プラス仔、実質三頭ワンセットで
輸入するんだね。
オカァチャン大変だよ、かわいそうに。
そういや今日こういうページを見つけたんですが
Ausgleich1までリストアップするか?普通wwwww
http://www.galopp-sieger.de/galoppsieger/index_html
背景解説 投稿者:ふてき 投稿日: 9月25日(月)06時44分25秒
ありがとうございます。
なるほど。わりと新興のオーナーブリーダーが導入した種牡馬だったのだろうと。
ランチョ・デル・パソは当時世界最大の牧場だったらしい?ですから
仕事で西海岸に行き来してる人間だったら、まず目に留まっていたでしょうしね。
アルトデベルンでガルバティ氏が馬産を行っていた頃はポーランドが国家として
存在しなかった時代なんですかな。うむむ。。
Canopus 欧州での最大の成果は曾孫の Nektor がポ三冠馬 Ruth の母父になったことですか。
http://www.pedigreequery.com/ruch
なんだかんだで二度の大戦を乗り越えて現在までその血は残ってるんですね。
(Nektor--Pink Pearl 経由が最大勢力か )
http://www.pedigreequery.com/pink+pearl2
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月24日(日)20時37分7秒
すいませんね。ただのインスピレーションで裏付けないんでw
おそらく購買者であろう馬主がE.L.Garbaty(ガルバティ)って人で
前世紀初頭にベルリンのパンコウって地区で煙草生産を
行なったユダヤ人一家らしく、会社は当時アメリカや植民地であった
アジアに支社を構えてたらしい。その関係で当時のCanopus馬主の
ハッギン氏と知り合い、馬購入したんじゃないのかな。
canopusの繋養地はそのガルバティ氏の避暑地アルトデベルンで
非常に美しいところみたいです(リンク参考)。
ガルバティ家は煙草産業界の競争の激化の後、最終的のは
ナチドイツに城没収、会社を実質乗っ取られ、アメリカに
逃げ、戦後は旧DDRによって国営化って運命(お決まりのw)を辿りました
http://www.ansichtskarten-pankow.de/pankowgarbaty.htm
http://www.altdoebern.de/Historie/body_historie.html
お久しぶりです! 投稿者:ふてき 投稿日: 9月24日(日)19時08分52秒
お身体労わり下さいまし。
フォローどうも。
カノープス、やはりドイツへ行ってましたか。
そちらで生まれた産駒の生産国表記がFTでは(GER)、デルマでは(POL)と
なってますから、デルマの方は「プライド・オブ・ポルスカ」なポーランド人が
エディットしたのでしょう。きっと。
金根はやはり当て字と考えるのが筋でしょうか。日本語で金根なんて初耳ですし。
Canique は一体何語なんすかね。星の名前関連ではなさそな気配ですが。
http://www.pedigreequery.com/canopus
(無題) 投稿者:wilde katze 投稿日: 9月24日(日)08時04分21秒
久々登場のwilde katzeです。
たまたま(爆、Canopusのことを眼にしたので、微力ながら
力になれるか、と。
実はこの馬は後にドイツに種牡馬として売られたみたいです。
1901年にアメリカに渡り、1911年の終わりにドイツへ来たと
書かれています。
アメリカでの産駒のところに(詳しく書かれてる訳ではないですが)
何頭かの名前(のみ)が記されており、金根さんに近いのは
Caniqueという馬じゃないのかなぁ・・・とか
でも、ドイツ語的には、カニッケ(ン)って『ファックする』って
隠語でアレなんですが。おそらくアメリカ人的には
『カッネーイキッ』とか、ガム噛みながら言いそうでwww
北海タイムスなら 投稿者:ふてき 投稿日: 9月23日(土)19時43分28秒
多分うちの近所でも調べられると思いますが。。。
金根(USA)は能力披露以前の境遇だったわけですか。
最初から繁殖目的で連れてきたわけじゃないでしょうから、
恐らくどこかで誤算が生じたんですね。まぁ極端な能力差で
競馬自体を破壊されても困りますから。
種牡馬としては例の平出氏の牧場にでも入ったんですかな。
Canopus 産駒関連の馬をデルマで見てて思ったんですけど、
ハッギン氏って随分とオセアニアから馬を入れてるんですね。
首位種牡馬になった Sir Modred(NZ) の他、繁殖牝馬でも結構見かけました。
↑
#これのスペルが違っておりました。>グル
http://www.pedigreequery.com/sir+modred
うろ覚えで書くもんじゃない 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月23日(土)18時08分50秒
ですね。マッケー氏の綴りは MacKey でしたか。
金根も札幌の番組にちゃんと母ゲレンと書いてありました。
私がメモるとき間違えただけで。
成績は初日の外国産馬競走1着、2日目は登録がなく、
3日目の外国産馬曲線競走には出たのかどうか・・・
北海タイムスを調べればわかると思いますけど
これ以後外国産の自由購買馬が出られるレースは
どこにもありませんのでこの開催がワンチャンス。
しかし種牡馬になってたようでよかったです。
そもそも 投稿者:ふてき 投稿日: 9月23日(土)10時11分19秒
金根も「カネネ」と読めますしね(笑)
まぁここはストレートに、金根の娘なので金子(カネコ)と付けた、と解釈したいです。
Yolo Stud 跡地は記念公園になってるんですかね。
http://www.cityofsacramento.org/council/graphicapp/item.cfm?MenuID=5092&CategoryID=4&ID=18
↓ 間違い 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月22日(金)23時29分23秒
元は皆「カ子子」なんですよね。
どうも昔からカネネってのが 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月22日(金)23時28分12秒
気になってまして、カネコの間違いかなあと。昔のカタカナって
「ネ」は「子」ですから。『アラブ系牝馬系統大鑑』ではカネエ
とかカネユとか書いてますが、元は皆「カネ子」なんですよね。
で、『大鑑』をもう一度開いてみると
豪洋・糸舞
カネコ(生年不詳・父中半・金根)
第二カネエ(大11、父アア・ベルトン)
第三カネエ(昭5、父アラ・ダーマン)
カネユ(競走名キンテツ、昭11、父アア・アブラール)
って、これ全部カネネですね。多分完全な軽種ですよこの系統。
なるほどです 投稿者:ふてき 投稿日: 9月22日(金)21時04分30秒
John McKay 氏が駐日公使の職にあった頃の話でしたか。
マッケイ氏--一條氏--続氏--平出氏というラインが完成してスッキリです。
となると、それなりに肝いりの一頭を連れてきたんだろうと言う気もするんですが、
肝心の戦績はパッとしなかったんですかね。故障とか、そっち方面の事情かもしれませんが。。
また忘れてましたよ 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月22日(金)19時30分48秒
『報告書』のこと。ゲレンですか・・・いそうもないなあ。
Canopus はどうも Rancho del Paso や Yolo Stud にいたっぽい。
前者は一條友吉氏がいた牧場で、同氏の先生とも言うべき同場場長の
John McKay 氏が自分で持ったのが後者ですから、その線でしょうね。
当時の競馬はクラブの会員名義で出走させるわけなんで
続氏を通じて平出氏の名義を借りたんじゃないかと思います。
感謝です 投稿者:ふてき 投稿日: 9月21日(木)23時20分14秒
自分もデルマで色々試しましたが、「ゲレン」厳しいっすね。
当時のことですから、かな遣いの問題もありそうですしね。。。
デルマに登録されてる Canopus の米国産産駒の血統から推測すると
この種馬、カリフォルニア州で供用されてた感じっすか。
あと金根の輸入には続氏が絡んでいそうな気もしますけど。。。
まぁ「ゲレン」解明には程遠い手掛かりということで。
金根の母 投稿者:あべちゃん 投稿日: 9月21日(木)21時51分35秒 編集済
以前、Lucky Boyさんにコピーさせていただいた『第二次競馬連合会報告書』の馬名表に
よると、金根の母は「ゲレン」となっていました。
思いつくスペルをデルマで探してみたけど、見つからない...
# 投稿者と題名を間違ったので編集(^^;
ついに 投稿者:ふてき 投稿日: 9月20日(水)17時51分34秒
ベイズが現役トップに踊り出ましたね。
Canopus (GB) 1895 牡 鹿 / FNo. 2 / Hampton 系
父 - Sheen (GB) 1885 牡 鹿 / FNo. 2-d / Hampton 系
母 - Charmian (GB) 1882 牝 / FNo. 2 / Eclipse 系
牝系図
Lucetta ( 1876 牡 Tibthorpe ) … ケンブリッジシャーS/GB
| Charmian ( 1882 牝 Galopin )
| | Chloridia ( 1888 牝 栗 Mask )
| | Goddess of Flowers ( 1896 牝 Sheen )
| | Godetia ( 1907 牝 Avington )
| | Godelive ( 1917 牝 Le Mourdreux ) … ベルギーダービー/BEL
| | Kew ( 1893 牝 Hampton )
| | Prince George ( 1901 牡 Isinglass )
| | [ Canopus ( 1895 牡 鹿 Sheen ) ]
| Silver ( 1883 牡 Sterling )
| Luciana ( 1884 牝 Mask )
| Magister ( 1895 牡 Fulmen ) … ノルドライン・ヴェストファーレン大賞/GER
| Love in Idleness ( 1885 牝 栗 Mask ) … ルース・メモリアルS/GB
| Leisure Hour ( 1895 牡 St. Simon )
| Gold ( 1886 牡 栗 Sterling ) … アスコットゴールドC/GB チャンピオンS/GB ウッドコートS/GB
| Speed ( 1891 牡 鹿 Hampton ) … コーク&オラリーS/GB ジュライS/GB
------------------------------------------------------------------------------------
SireLine for Windows Ver 1.50 - Build 496
確かに活躍牝系のようです。
種牡馬としてのちにポーランドに渡ってるようですね。
かの地のオークス馬の血統表に顔を出したりしてるようで。
Floraza(GB)(ch f 1905 Galeazzo(GB))
|Caffee Tante(GER)(b f 1914 Canopus(GB))
| |JAGODA(POL)(b f 1930 Harlekin(GER))..........Nagroda Liry
|Campo Formio(GER)(b f 1916 Canopus(GB))
| |Bavarde(GER)(ch f 1922 Eider(FR))
| | |NEKTAR(POL)(b c 1934 Mah Jong(GER))........Nagroda Produce
-----------------------------------------------------------------
以上ファミリーテーブルIV473頁より。
ファミリーテーブルはこちらからご購入いただけます。
http://www.keibabook.co.jp/homepage/horsenavi/book.html
サッスーン卿の祖父はバグダッドの出、とありますね。
そっちがルーツの人とは知りませんでした。
お抱えの清水師の素性がチト気になります。
昔のことを調べてると 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月20日(水)03時54分48秒
いろいろ変な輸入馬がいるんですが大正元年秋札幌の登録馬に
金根、米国産鹿毛牡4歳、父カノパス、母不詳、平出喜三郎氏所有がいました。
父 Canopus, b.1895 は英国産でその父 Sheen, b.1885 (Hampton - Radiancy)
その母 Charmian, b.1882 (Galopin - Lucetta) という結構な血統ですが
母不詳ではどうにもなりませんね。おまけに本人の馬名も漢字ですし。
CHINA RACES 見つかりました。1983年初版、オックスフォード大学出版局。
香港支社の独自発行みたいですね。金主は間違いなくHKJCでしょう。
34ページの馬夫レースの絵は面白おかしく描かれていますが
明治初期の横浜での別当レースと同じレギュレーションでしょうね。
鞭と拍車を禁じて当時の感覚としては追えない姿でのレースです。
外国人はこういうのを見て笑ってたんでしょうけど、そこから
Little Dick 神崎利木蔵や Ichi 大野市太郎が出てくるわけで。
またの名を 投稿者:ふてき 投稿日: 9月12日(火)21時24分3秒
凡凡亭主人氏ですか。しかしまあ何と!
その繋がりは全然知りませんでしたよorz
競馬通信大全、3冊しか持ってませんし(コラムがあるのはうち1冊のみ)。
それはともかく、この格付け草案はある意味では非常に貴重な一品ですね。
ダート競走格付け委員会が発足したのが1996年。
ダービーGP創設が1986年。東京王冠や川崎記念をG2とする見解が
あることからして、作成したのはロジータ以前、1987年か88年とみましたが。
すみません。 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月12日(火)18時56分23秒
パナマはそんな大それた馬じゃないです。
2着になったのはシドニーカップじゃなくてシドニーHでした。
ところで野辺好一氏がコッペーさんの厩舎があった所を教えて下さったのを
ノートに書き留めていたと思って探したら例によって見つからないのですが
遠い昔物好きが集まって地方競馬の重賞にも格付けしてみたのがあったので
その頃GⅠと考えられたレースをご紹介してみます。Aは沢田準の名で雑誌
に書いていたこともある人、Bは当時東京在勤の北海道の熱心な競馬ファン、
Cは日刊競馬におられた栗原正光記者、Dは山野浩一氏(サラのみ)です。
評者 A B C D
東京ダービー Ⅰ Ⅰ Ⅰ Ⅰ
東京大賞典 Ⅰ Ⅰ Ⅰ Ⅰ
帝王賞 Ⅰ Ⅰ Ⅰ Ⅰ
羽田杯 Ⅱ Ⅰ Ⅰ Ⅱ
東京王冠賞 Ⅱ Ⅰ Ⅰ Ⅱ
青雲賞 - Ⅰ Ⅰ Ⅱ
川崎記念 Ⅱ Ⅱ Ⅰ Ⅱ
東海桜花賞 Ⅲ Ⅰ Ⅱ Ⅱ
ダービーGP Ⅱ Ⅰ Ⅰ Ⅰ
アラブ王冠(道営)Ⅱ Ⅲ Ⅰ
東北ア3歳チャン Ⅲ Ⅱ Ⅰ
アラブダービー Ⅰ Ⅰ Ⅰ
全日本ア大賞典 Ⅰ Ⅰ Ⅰ
全日本アラブ争覇 Ⅱ Ⅰ Ⅰ
兵庫大賞典 Ⅱ Ⅰ Ⅰ
全日本アラブ優駿 Ⅰ Ⅰ Ⅰ
園田金盃 Ⅱ Ⅱ Ⅰ
「伝説の名馬」 投稿者:ふてき 投稿日: 9月12日(火)18時50分2秒
豪州馬の項を何年か振りに読み直してみたんですが、カーバインの
ヒッケンボタム調教師のことを「この時代(19世紀末)には珍しく
八百長の嫌疑がかけられたことが一度もない真面目な調教師云々~」
と表現している事からも当時の豪州競馬事情が垣間見えますね。
まぁ現代でも似たような話(斤量増回避のヤラズ)は伝わってきますが。
あと、ファーラップ3度目のメルボルンカップ(8着)での負担重量は
10ストーン10ポンド(68キロ)だったそうですね。
最軽量馬とは20キロ以上の斤量差があったんじゃないでしょうか。
真実は 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月11日(月)23時11分44秒
来日前のH・コッフェーは、10代で大レース入着などの活躍をしていたのだから、
そのまま現地に残っていても名騎手として名が残っていたかもしれません。
日本で競馬があると聞いて「飄々とやってきた」などという記述もありました。
日本で最初にモンキー乗りをしたとの話も。
豪州人騎手にありがちの風車鞭が日本人騎手の不評を買い、
神馬惣策、東原玉造、佐藤嘉七、二本柳省三がレース中に
コッフェーを囲って鞭で引っぱたいて、騎乗停止なった話は有名ですね。
南米でも20世紀初頭までは50kg以下が普通です。
中には42kgで出走という記録まであります。
当時の騎手に年少者、というは10代前半の子供が多くいるのはそのためなのかな。
時代と常識 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日: 9月11日(月)22時32分29秒
うわ、当時は50キロ以下が常識でしたか。下の方に Apologue に
騎乗したエヴァンスが急な減量でレース後に脱水症状で倒れたとありますね。
逆からいえばカーバインやポセイドンがどれだけ無茶苦茶な重量しょってたか
ということになりますか。。。
日本ではだいたい125ポンド(56.7Kg)以上で乗っていたようなので、体重
にはあまり苦しまずに済んだのかな。
イングルウッド登録しました 投稿者:ふてき 投稿日: 9月11日(月)22時00分22秒
http://www.pedigreequery.com/antonius2
http://www.pedigreequery.com/inglewood7
アントニウスは既にあって、パナマは血統わからず。
もし6ストーン10ポンド(42キロ位?)で騎乗していた僅か翌々年に
8ストーンでも乗れなくなっていたのだとしたら、かなり深刻な問題だったでしょうね。
大きなレースでは 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月11日(月)18時34分57秒
1906年のアスコットヴェールSをアントニウスで、
1907年のQTCセントレジャーをイングルウッドで
勝ってますね、H・コッフェーは。
1905年のシドニーカップはパナマで2着してます。
この時の負担重量は6ストーン10ポンドでした。
50.5kが裸同然とおっしゃいますが、
昔の豪州では負担重量は7ストーン台が常識ですよ。
1907年のコッフェーはもう8ストーン(50.8k)以下では
ほとんど乗れてないっぽいので、来日の動機は体重の増加かも。
これはまた何とも 投稿者:ふてき 投稿日: 9月11日(月)18時29分29秒
なるほど。斤量絡みのゴタゴタがあったわけですか。
基本的には、陣営が「カップ・ダブル」を二頭共に花を持たす形で狙い、
それを見事にしてやった。ということでしょうか?
"Apologue, owned by NZ bookmaker RL Cleland"
この一節がなんとも更なる疑惑をかきたたせますが。
斯様な逸話がネットで紹介されているくらいですから、
その手の書籍をあたればコッフェー騎手のファーストネームは
案外容易く掴めそうです。それ以上の情報、追放の説の真偽なんぞも
どこかに記載されていそうな気もしますですよ、これは。
例によってネット検索頼りですが 投稿者:GURU@偏屈爺 投稿日: 9月11日(月)00時47分40秒
>1907(明40)_コーフィールドC(Apologue 2着)
このレースはいわくつきだったみたいですね。Apologue は名馬 Poseidon
と同厩舎(I.Earnshaw)で、直線 Poseidon が抜け出してから突っ込んで
きたものの、仕掛けが遅れたことに対して論議(疑惑?)が巻き起こった
そうです。メルボルンCでは Poseidon は65キロの極量を背負わされて
B.Evans 騎乗の Apologue(本命)の8着に沈みました。Apologueも決して
弱い馬ではなく、おまけにコーフィールドCでは 50.5kgと裸同然の斤量、
あれこれと勘ぐられた。。。ということなのかという憶測もありうるかと。
http://www.racingandsports.com.au/breeding/breedingfeatures.asp?f=FeatureArticles-Poseidon06
ビツクリ 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月10日(日)22時40分15秒 編集済
正しくはH.W. Coffeyですか!大きな発見です。
このミスはしょうがないでしょう。古い優駿の記事とか見ても、
すべてW.H. Coffeyですし、単行本などでもそうなっていますもの。
なぜファーストネームのWが省略されてヱツチ・コッフェーなのか疑問でしたか、
Hがファーストネームということで納得です。
コッフェーのファーストネームは現地(オーストラリア)で調査すれば、
案外簡単に判明するのかもしてませんね。
現在活躍中のCoffey姓の騎手との関係も気になりますね。
そう良くある姓でもありませんし。
帰国後のCoffeyの動向は特に知りたい情報です(^-^)
Wがミドルなら 投稿者:ふてき 投稿日: 9月10日(日)21時56分12秒
例のサイトのH.Coffeyはほぼ間違いなくコッペーさんのことになろうかと。
あそこにある全成績を抜き出すと以下のとおりでした。
1905(明38)_コーフィールドC(Scot Free 着外)
1905(明38)_メルボルンC(Scot Free 2着)
1906(明39)_コーフィールドC(Lord Fitzroy 着外)
1907(明40)_コーフィールドC(Apologue 2着)
http://www.ozeform.com/site/racing_info/melbCup/mc_results.aspx?year=1905
http://www.ozeform.com/site/racing_info/caulCup/cc_results.aspx?year=1905
http://www.ozeform.com/site/racing_info/caulCup/cc_results.aspx?year=1906
http://www.ozeform.com/site/racing_info/caulCup/cc_results.aspx?year=1907
興味深いのが、1907年に騎乗しコーフィールドカップ2着に入った Apologue が
同年に別人騎乗でメルボルンカップを制している事ですね。
両レースが今と同じ施行順で行われていたかどうか知らないんでアレですけど、
一体どんな理由があってメルボルンカップでは騎乗しなかったものか、
翌年が来日(追放説もあることで)した年とされるだけに憶測が憶測を呼ぶところかと。
#検索すると、現役の豪騎手に Lincoln Coffey 他、何人か Coffey と言う名字の
#騎手が出てきます。子孫の系統が。。。なんてことは。
恥ずかしい話ながら 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月10日(日)20時56分44秒
私も昔どこかで読んだ記事を基にW・H・コッフェーだと長年思い込んでました。
今日別件で根岸へ行ったついでに彼が書記長を務めていた大正9~11年の番組を
チェックしたら、ヱツチ・ダブルユー・コフヒー氏と書いてありました。
開港資料館へ行って YOKOHAMA DIRECTORY 1921 を見ると H.W. Coffey でした。
Hがファーストイニシャルということになりますね。反省しきりです。
ふむふむ・・・ 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月10日(日)10時41分59秒 編集済
境が関西、新屋が関東、だったのですね。
戦前の優駿に「関東では境君より新屋君のほうが数も余計に乗ってゐるので、
それだけファンへの馴染みも深く、今では相当の新屋ファンも多い。
負い込みは強引だし逃げてスムーズで、意表外の勝利を占めるやうなことも
珍しくない」との論が掲載されています。
ただ新屋幸吉は大正8年11月19日生まれ、境勝太郎は大正9年3月6日生まれですので、
新屋のほうが境より1年年上ですね。
新屋は北海道の稗田厩舎と矢倉厩舎のそれぞれで修行したとあります。
その関係で、所属は清水茂次厩舎からとなったのでしょう。
清水茂次師は最初は旭川の森江小八郎の下で修行し、
次に札幌の星川泉士の弟子になり公認競馬の免許を得て、
その後、稗田厩舎の下乗りに迎えられました、
稗田厩舎で4年ほど活躍した後、稗田厩舎から5頭ほど馬を分けてもらい独立しました。
あと、川崎の廣野保義師は元々は新屋幸吉の弟子だったそうです。
昭和19年の首位騎手杉村繁盛も川崎に移籍しているので、
中央首位騎手獲得者の地方移籍は4名でした。
川崎の杉村勝実師は繁盛の息子です。
コッフェーが豪州競馬界で追放という話は、どこかで聞いたような気がします。
伊藤勝吉『競馬おぼえ帳』に、伊藤が20歳ぐらいのころ、
コッフェーは22~23歳だったとありますね。
コッフェーには、神戸生まれの外国人の奥さんがて息子もいたとあります。
一度騎手を引退していますが、そのの原因は、
お金が溜まったことと、ロマンスが持ち上がったことで(奥さんのことか?)、
紳士然として暮らしがしたなったためです。
優駿の伊藤勝吉の寄稿文で、戦後オーストラリアを訪問した際、
「どうせ彼のことだから余りよい目はしていないだろう」と
コッフェーに会いに行こうと思ったが、
女王が来られるとかで会いにいくことができなかった、とあります。
コッペーさん 投稿者:ふてき 投稿日: 9月10日(日)09時36分5秒
1905年のメルボルンカップ2着馬の鞍上が彼だとすると、騎乗時には
18、9才だったと言う事になりますね。
杉浦照師は「コッフェーが師匠」と語ってるそうですから
半ば強引に(かつ大雑把に)系統分けすると
WHコッフェー―――杉浦照―――中野吉太郎―――中野隆良―――柴田善臣
| |
| |―田口大二郎
|
|―成宮明光――――蛯沢誠治
|
|―栗田博憲―――柴田大知
|
|―岩部純二
善臣騎手は将来調教師になるつもりあるんでしょうかね。
存亡の危機にあるマイナー系統なのは確かなわけで。
ちょっと気になって 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月10日(日)03時42分18秒
とりあえず手元の資料を見てみると、コッフェーは明治41年秋の競馬には
出てますが、42年春にはいなくて、42年秋からレギュラーで乗ってます。
ということは一度豪州へ帰ってるんですね。そして寂れた日本にまた来た。
実は未確認ですけど彼には豪州を追放されたという話があって、もしかすると
この期間中に何かあったのかと邪推できるかも?
年齢については確か伊藤勝吉師の本に来日時22~23歳とあったような。
CHINA RACES でしたか。 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月10日(日)03時25分9秒
それなら1冊あったぞと思いながら見つからない。
まあツンドクで家が傾いてる状態ですから・・・
昨年再刊されたと思います。
新屋幸吉は清水茂次門下ですよ。境勝太郎より1歳年少です。
清水厩舎は札幌が本拠で春秋は本州に出張してましたが、
主力が関西なので清水師と境騎手は関西、新屋騎手は関東へ。
だからニパトアの天皇賞は新屋騎手が乗って勝ってます。
境師は新聞のコラムでよく師匠の間違いで僕が乗るはずだった
ニパトアに弟弟子が乗って天皇賞を勝ったと書いていますが、
頭の中で自分なりの事実が作られていったんでしょうね。
戦後ダービー騎手になりますが既にどこか悪かったようで、
下手になったという評が見られます。
コッフェーはちょっと調べてみましょう。でも難しいかな。
彼は明治41年秋、C・ダウン氏が豪州からプリンスチャーレー
(豪州名ホートニブ、種牡馬名ホートニップ)を輸入したときに
一緒に連れてきた騎手で、同じ豪州人のフヰツゼラルドや米国人
スコーヴィルも同時期に来てます。馬券黙許で好景気だったはず
なのに、馬券禁止でアテが外れたというところ。
野辺好一氏はコッペーさんと言ってました。
どうもです 投稿者:ふてき 投稿日: 9月 9日(土)21時04分44秒
PDFファイルありがとうございます。
とりあえずトンシャンだけ確認しましたが、
Tongshan=Tangshanなのですね。
ということは「唐山」ということでよろしいですか。
http://www.e-tangshan.cn/
#しかしこれ権利関係はダイジョブっすか?
コッフェーは母国でそれなりの実績を残してたんですか。ちと驚きです。
そのサイトを見る限り、その年以前にその名がほとんど出てない気配なので、
おそらくは若くして一山あげる気で来日した、と言う事でしょうか。
新屋幸吉は活躍の割に知られてない騎手ですね。
書かれた物もあまり読んだ記憶がないです。
成績だけで振り返ると、稗田虎伊-清水茂次-新屋幸吉と続くこの一門の
本流じゃないか、とすら思えるんですけどねぇ。。。
前から思っていたのですが、 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月 9日(土)20時12分4秒 編集済
1905年のメルボルンカップ二着の騎手 H.Coffey は
大正期に横浜・東京・阪神で活躍したH.コッフィーと
同一人物ですよね。
http://www.ozeform.com/site/racing_info/melbCup/mc_results.aspx?year=1905
豪州でも活躍した騎手だったようで。
ちなみにH.コッフィーのHはミドルネームで、
ファーストネームはW。W.H.Coffeyが正確なのですが、
これだけ日本で活躍した騎手なのにファーストネームが
わからないのです。以前にざっとですが、開港資料館で当時の外国人人名録(英語)を確認しましたがダメでした。
おそらくWilliamじゃないかぁ~~推測ですが。
稗田十七二の話題ついでですが、同じように中央で首位騎手を
獲得して、その後地方競馬に転じた騎手に新屋幸吉という人物が
います。昭和22年に36勝をあげて首位騎手を獲得し、
翌年にはミハルオーでダービーも制覇しています。
1927年に南関東へ移り、1930年に大井で落馬し死去しました。
新屋幸吉についていろいろと情報を集めていますが、
なかなか厳しいのが現状ですが。戦後の一時期は、
境勝太郎氏と同厩だったそうです。
新屋は最初は北海道で稗田虎伊の元で修行を積んでいたという
稗田一門の出身でもあります。
大正13・14年の首位騎手の函館孫作を含めると、
地方競馬に移った中央首位騎手獲得者は3名ということです。
ありました 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月 9日(土)19時32分38秒
祖母の一周忌&友人の家へ遊びに行っていました。
まぁ、少し調べ物もしました。久々に横浜まで足を伸ばしましたよ。
前回お話した中国競馬本『China Races』のファイルですが、
一部ですが残っていました。pdfファイルにしましたので、
ダウンロードしてください。
http://www.d4.dion.ne.jp/~ken.ooka/china.pdf
全14章のうち、最初の三章
1.The Barrier Gate
2.Boom Town
3.Peking and the Racing Ports
は入っていませんが、この三章は全体の1/6で、
内容もほとんど導入なので、安心してください。
ファイルは、「第4章Happy Valley」から始まっていますが、、
この章だけ章扉が入っていません。文書は最初から入っていますので、
ご安心ください。250ページぐらいありますが、
まぁ、まずはざっと下見してみてください。
ご苦労様です 投稿者:ふてき 投稿日: 9月 4日(月)22時47分18秒
調べ物ですね?>LBさん
大きな成果が上がりますよう。
Tongshan、了解しましたm(_ _)m
どこかで何かの手掛かりでも拾えたらここに報告します。
揚樹浦競馬場は(サーバの問題で?)PDFファイルを閲覧できないのですが、
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/city/shanghai02.html
こっち地図にも記載がありました。随分小さな感じですね。
漢口の中国(支那)競馬場はこちらに載ってますね。
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/wuhan01.html
すぐ上に縮尺がありますが、ざっと見、1周1マイル位ですか。
この地図の 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月 4日(月)03時50分56秒
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/map16-1-6.pdf
右上に蒋介石の大上海市構想の都市計画が見え、その南半分を囲むように
幅広い緑地帯があります。緑地帯の西端に「萬国競馬場」とある楕円形が
江湾競馬場です。緑地帯の東端近くに「遠東運動場」と書かれた楕円形が
中国人経営の揚樹浦競馬場です。
Tongshan については確認していませんがhttp://www.geocities.com/treatyport/foreignforcesinchina.html
このサイトの冒頭に並べられた条約港の中に Tongshan も入っていて
台湾海軍の英文サイトで Battle of Tongshan を読むと(なぜか中文
では発見できず)汕頭付近のようで、開港場に指定された汕頭という
のが Tongshan のことかなと思っています。
漢口にも飛び地サイトにある地図の左外に中国競馬場がありました。
これは文献には出てきませんが若い頃現地で確認してます。
ただいま外遊中 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月 3日(日)23時09分7秒
国際娯楽倶楽部って、日本に帰化した成金中国人が、
上海レースクラブの会員を断られたのにブチ切れて新たに作ったクラブでしたっけ。
なので広く門戸を開いたクラブになったとか。
圧力によって出走馬を集めるのに苦労したけれど、イギリス皇太子の訪問で
主導権を握って、上海レースクラブと和解したというオチでしたね。
第三の競馬場ってどういうものか記憶がさだかでない。
完全に忘れています(笑)
数年前に大変良質の中国競馬史の本(英語)が刊行されています。
お勧めです。題名は…ただいま外出中なので、帰宅後に報告します。
確か以前に全ページをスキャン&OCRをして、
画像とともにワードに整理しました。パソコンがクラッシュしたときに消えてしまったと思っているのですが、もしかしたら残っているかも。探してみます。
僕の記憶が正しければ、戦前の朝日グラフか何かかで、
上海競馬の特集があったはずです。とても貴重な資料だと関心しました。
国際競馬場 投稿者:ふてき 投稿日: 9月 3日(日)22時18分18秒
Tientsin Courseは衛星写真でもクリークが残っているのが
ハッキリ確認できますね。
ただし、近くを歩いても競馬場の痕跡などはあまり感じられないとのことで。。。
http://www.explore.ne.jp/articles/keyou/sozoro07.html
上海には第三の競馬場もあったんですか。
以前教えていただいた情報を加味して、戦前中国の公認競馬場を整理すると
(上海)Shanghai Course--------上海レース倶楽部
(上海)Kiangwan Course--------国際娯楽倶楽部
(天津)Tientsin Course--------天津レース倶楽部
(天津)Nankai Course----------直隷中国レース倶楽部
(北京)Peking Course----------北京倶楽部
(北京)Peking Nanyuan Course--国際娯楽レース倶楽部
(漢口)Hankow Course----------漢口レース倶楽部
(香港)HongKong Course--------香港ジョッキー倶楽部
#トンシャンTongshan が何処にあるのかわからなかったです。。。
あとはここに(哈爾濱)(青島)辺りが加わるのですかね。
その記事は逆じゃないですかね。 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月 3日(日)12時30分45秒
上海には3つ競馬場がありましたから。
天津には Tientsin Race Club の Tientsin Course と
Chinese Race Club of Chihli の Nankai Course がありました。
下の地図の支那競馬場が現在の南開区にあるようですから、これが後者かと。
Chihli は直隷の音訳ですね。
天津ですか 投稿者:ふてき 投稿日: 9月 3日(日)09時41分23秒
戦前の天津って3つの競馬場があったんですかね。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2005&d=1222&f=keyword_1222_001.shtml
当初から在った?中国(支那)競馬場と
英国人が租界に造った国際(外国)競馬場の二つは確認できるのですが。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokainomawari.html
http://keropero888.hp.infoseek.co.jp/city/tianjin03.html
国際競馬場は一から十まで英国人好みのスタイルで造られたものだったんじゃないでしょうか。
稗田敏男師は昭和19年 投稿者:通りすがり 投稿日: 9月 2日(土)23時14分59秒
日本の競馬が停止され能力検定競走に切り替わったとき
天津に渡って騎手を続けたそうです。
天津国際競馬場の写真を見たことがありますが、東洋一の美しさかと。
右回り1周2000mの芝コースの内側がぐるりとクリークになっていて、
その内側が芝生のポログラウンドでしたね。もっとも戦争中国際競馬場と
中国競馬場のどちらが残されたのか知りませんけど。
お悔やみ申し上げます 投稿者:ふてき 投稿日: 9月 2日(土)16時55分8秒
敏男氏は大柄だったためか、騎手実績はほとんどなかったようですね。
管理馬の代表格は
・ホマレボシ(有馬記念)
・ガーネット(天皇賞秋、有馬記念;稗田牧場生産)
・コクサイプリンス(菊花賞)
ですか。
いやしかし。今日の札幌メインで大穴あけたのがこれですよ。
http://k-ba.data-hotel.net/cgi-bin/ped/pedigree.pl?data=112566
悲報 投稿者:Lucky Boy 投稿日: 9月 2日(土)10時12分17秒
稗田敏男元調教師がお亡くなりになりましたね。
ちょうど稗田家の話題をしていた時にとは。。。